第2期-逆境-

(1)芳規逝く、そして彷徨

昭和50年、芳規は、栃木県那須郡湯津上村(なすぐんゆつかみむら)において知的障害者入所更生施設「たびだちの村」の建設計画を立てた。しかし、東京都の住民を入れる施設を栃木県が認可しなかったために、この計画は幻に終わった。

その後も「実習ホーム」の父母の強い希望で、親亡き後の問題に本格的に取り組み続けたが、施設建設計画は一向にめどが立たなかった。

当時は、社会福祉法人を創って入所施設を建てることが、親亡き後の問題を解決する唯一の手段だと考えられていた。施設(入所更正施設)を創るには、最低1000坪の土地が必要とされ、その土地を買って法人に寄付しなければならず、東京で施設を建てるには莫大な資金を必要としたのだ。資金不足は明らかだった。
しかも、昭和59年1月8日、八重子の後ろ盾であった芳規が、胃癌で急逝してしまったのだ。八重子は途方に暮れた。陰に陽に実習ホームの運営を支えていたのが芳規だったからだ。舵取り役がいなくなった影響は大きかった。施設建設は白紙に戻り、それどころか実習ホーム自体の一時閉鎖も考えられた。それを止まらせたのが通所者であり父母であった。

この困難な時期、その年の4月に学芸大学の大学院(障害児教育専攻)に進学することになっていた八重子の二男啓友(ひろとも)が陰ながら運営を支えた。それまでも、実習ホームの手伝いをしながら芳規とは福祉について議論を交わしていたので、父の考えていることについては一番の理解者であった。研究者を目指していたので、将来は研究をしながら実習ホームを支え続けるつもりだった。

一方、八重子の長男康雄は当時、川崎重工(株)で超電導関連の開発設計をしていた。会社に骨を埋めようと思っていた康雄であったが、余命幾ばくもない父親(芳規)から、福祉への思いと、やり残した事への無念さを聞くことによって、福祉の世界への転身を決意する。一年以上の引き継ぎを経て昭和61年9月、康雄は川崎重工を退社することになる。

一時は存続が危ぶまれた実習ホームも徐々に落ち着きを取り戻していた。昭和61年4月には、同じ作業場の2階を利用して精神障害者共同作業所「第二大泉学園実習ホーム」が正式に開所していた。年末には川崎重工を辞めた康雄も「第二」の職員として加わった。
このころには「第二」の通所者も20名を越え、新しい作業に果敢にチャレンジしていた。新規事業の柱とすべく、特に印刷と特許図面には力を入れた。
印刷は、田無市の大善印刷の星社長のバックアップを受け、封筒や年賀状の印刷依頼を受けるまでになった。昭和62年8月の10周年記念誌は、初めて製版・印刷・製本までの全過程を自主生産したものである。
特許図面にも、通所者2名が果敢にチャレンジをした。ドラフターとロットリングを使いこなし、失敗の連続の末、ついに千歳烏山(ちとせからすやま)にあった樺山(かばやま)特許事務所から受注を獲得した。弁理士の樺山所長が、初期のひどい図面を見ながら「この人たちは、いつかものになる」と才能を見抜いてくれたおかげである。根気よくトライしつづけさせてくれた結果、ついに受注にこぎつけられたのだった。
実は、このときヒュール総合研究所の名前が生まれた。HUMAN WELFAREのH、U、W、Lを抜いてHUWL(ヒュール)という造語を作ったのが始まりだ。以後、公式には「第二大泉学園実習ホーム」だが、通称は「ヒュール総合研究所」を使用し始める。「第二」通所者が作業所のことを「ヒュール」と呼ぶのはそのためである。

(2)「第二大泉学園実習ホーム」の移転

「第二」の通所希望者はその後も増え続け、2階の部屋では手狭になったので平成62年4月、「第二」のみ石神井台6丁目3番に移転する。

お世辞にも綺麗とは言い難いプレハブの建物であったが、初めての独立した城を前に職員も通所者も、弥(いや)が上にも盛り上がっていた。
引っ越しを機に、研究者を目指していた二男の啓友も、長男・康雄に引きずられるように「第二」に就職する。その後の計画は、この石神井台の作業所で着想され実施計画が練られた。

「第二」は精神障害の方を対象にしていたが、高次脳機能障害や原因不明の体調不良で会社に行けなくなった方など、多様な人たちが集まってきた。元公務員やサラリーマン、芸術家崩れや元社長、それはそれは面白かった。作業中に話される会話も、音楽から経済まで多ジャンルに及び、おどろくほど高度で専門的な内容が多かった。

現在とは違い内職はいくらでもあった時代で、仕事に事欠くことはなった。しかし、あまりの工賃の安さに、金額だけで半田付(はんだづ)け作業を受注することにした。作業の内容は高級照明の配線をソケットに半田付けするものだった。金額はおどろくほど良かった。内職では何銭が有りえた時代に、数10円単位で貰えた。ただ、いかんせんド素人ばかり、失敗の連続だった。それでも二~三か月すると見違えるほど上手くなった。上手くなればなったで残業が増え始めた。夜10時ぐらいまで残業することも珍しくなかった。

昼食も初めは弁当だったが、作るのも買いに行くのもめんどくさい。ならば自分たちで作ろうと浅知恵を絞った。まず、ご飯は、五升炊きの大きな釜を買って炊けば良いとなった。どうせ、おかずはろくなものしか作れないのだから買ってくることにした。卵、納豆、コロッケ、ボンカレーなど、それぞれに金額を付けてバイキング形式にした。
生意気にも、おみそ汁は当番制にして作ることにした。これが失敗だった。生まれてから一度も料理などしたことがない者が当番のときはひどかった。それらしい色は付いているが、みそ汁の味ではない。「ま、まずい!」(心の叫び)皆、無言で飲んでいたが、ひとりのおじさんが怒りだした。「俺のに具が入ってない」味ではなく、よそり方が悪いと腹を立てただけだった。

昭和62年8月、大泉学園実習ホームは10周年を迎えた。10周年の記念誌の展望欄で啓友が将来展望を述べている。
「困ったことがあれば実習ホームと言うように、だれもが気軽に訪れることのできる、地域社会での福祉の拠点となることを目標とする。」(10周年記念誌より抜粋)
すでに24年経過したが、未だに色あせしない言葉である。

(3)土地探し

話を少し巻き戻す。
昭和59年に芳規が胃癌のため亡くなり、施設建設計画は宙に浮いていた。
「資金さえあれば…」生前の芳規が良く口にしていた言葉だ。
そんなときであった。保険会社から連絡が来た。
なんと、亡くなった芳則が癌保険に入っていたのだ。ほどなく死亡保険金が振り込まれた。ありがたかった。芳規の最後の置き土産だった。

昭和61年末「第二」に就職した康雄は、施設建設計画を引き継ぎ、すぐさま再開した。振り込まれた保険金を元にして、本格的に土地探しを始めることになる。ただ、この保険金の額では、東京で1000坪もの土地購入は望めない。
その当時、すでに茨城県で入所更生施設「中台育心園」を経営されていた千葉良典氏(現・社会福祉法人みのり会理事長)の助言もあり、紆余曲折を経て、建設候補地を千葉県内に絞った。千葉氏は、八重子の夫・芳規とは育成会時代の先輩・後輩の間柄であったこともあり、施設建設のノウハウを手とり足とり伝授してくれた。

昭和61年の末頃、八重子と康雄で初めて千葉県庁を訪ねた時のことである。県庁は、どこの馬の骨かも分からぬ二人に対して、相当な警戒をしているのが分かった。練馬区で作業所をやっていることを話すと多少は軟化し、こちらの話に耳を傾けてくれた。
担当の方も事情を理解してくれ、君津市なら施設が不足しているので可能性はあるとの示唆を与えてくれた。
担当者から、初めに「既成事実を持ってきても認可しない」と冷たい言葉を投げつけられたときは驚いたが、要は「事前に良く協議せよ」とのことだったのだろう。これからの長い道のりに対する心構えを作ってくれた気分だった。

県との協議によって、千葉県の君津市で土地を探すことになった。八重子と康雄は、月曜日から金曜日は作業所に勤務して、もっぱら土日を利用して土地を探し回った。
車で出かけるのだが、まだ東関東自動車道は開通しておらず、練馬から君津まで片道3~4時間はかかった。東京の不動産屋さんの案内で、地元の業者さんと合流して土地を探す作業がしばらく続いた。初めて案内されたのは、鹿野山の斜面だった。施設など建てられる場所ではなかった。
土地はいくらでもあるから、すぐに見つかると思っていた。
甘かった。
反対、反対、大反対。どこでも大反対された。
建設予定地の山一つ隔てた家の人までが反対するのである。
全く理解できなかった。

それでも、一応の候補地が決まったら、まず周辺地域の方々を対象に説明会を開催する。
東京のように密集していないので、大体40から50世帯が対象になる。
説明会の出席率は、かなり高い。いつも、地域集会場は40~50人の人で満杯になった。

あいさつから始まって、最初の一時間は、知的障害とはどんな障害なのか、建設する施設はどのようなものなのか。ほとんどの説明会は、ここまでは静かに進行する。
休憩をはさんで質問タイムだが、誰かの発言を口火として怒号の嵐が吹き荒れるのである。
「なぜ、ここに建設するのか?」
「うちには娘がいる。こんな施設が来たら外も歩けなくなる。」
「おまえらの金儲けには協力しない。」

昭和61年の末から始めた土地探しも一年が過ぎようとしていた。候補地を見つけては、住民に対する説明や説得を続けたが、一向に建設地は決まらなかった。
昭和62年に入ってからは、その年「第二」に就職した啓友も加わり、住民の説得にあたった。
何回、説明会を開催しただろうか。
夜に何件もの個人宅を訪問し、直接説明もさせていただいた。
しかし、計画は、ことごとく潰された。
候補地も転々とし続けた。
君津市の土地は、数年後にできる東京湾横断道を見越して買占めが盛んだった。歩を合わせるように、怪しげなブローカーも暗躍していた。サスペンスドラマになるような魑魅魍魎が闊歩する世界だった。
どの不動産業者も強気で、ひたすら頭を下げてお願いする状態だった。東京から不動産業者を連れて行くときは、食事代はすべてこちら持ち、手土産つきで事務所までの送り迎えまでしなければならなかった。

そうこうしているうちに、二年が過ぎ去っていた。
誰もがくたくたになっていた。
千葉県庁もしびれをきらしていた。
昭和63年も夏になろうとしているころ、建設地を決める最終締め切りが一週間後に迫っていた。

(4)練馬での新たな試み

千葉県で建設予定地を探している一方で、東京の練馬では新たな試みが始まっていた。

施設建設に反対する住民のほとんどは、無知からくるものである。知的障害と精神障害の違いも解っていないし、解ろうともしなかった。無知から感情での反対に移行した人々に、いくら言葉で説明しても受け入れてもらえない。当時の法律用語の字面も誤解を招いた。精神薄弱者という文字が、一般人には精神障害と同義語になった。
特に精神障害に対する誤解はひどいものがあった。治療を受ければ社会復帰できる病気であることを決して受け付けなかった。精神の病は誰でもが罹(かか)り得ることを、知っていながら頑(かたく)なに反対した。どうしてもセンセーショナルな犯罪者と精神障害者をダブらせるのだ。
住民とは身勝手なもので、反対する一方で福祉の理念は持ち合わせている。福祉施設の必要性も十分に認識している。しかし総論賛成、各論反対、障害者施設が建つとなると理性を押しのけて感情で反対してしまうのだ。
感情で反対する人たちに、理路整然と正論をぶつけたところで、聞く耳を持ってくれない。言葉で理解してくれといくら言っても無駄である。
ならば、後ろ姿で解らせるしかない。結果を示して納得してもらうしかないのだ。
結果とは何か。簡単なことだ。世の中で役立つ存在になれば良いのだ。自分たちがいなければ生活できない、と思わせるぐらい大事な仕事をすればいいのだ。
理屈ばかり並べても何も変わらない。残されているのは実際の行動しかなった。昭和61年から62年にかけての頃であった。

そこで考え付いたのが、一人暮らしのお年寄りにお弁当を配達することだった。当時は、まだ高齢化もそれほど叫ばれていなかった。需要があるのか確信はもてなかった。しかし我々を待ってくれている人は必ずいる、と勝手に思い込み、すぐに始めてしまった。
通所者の中には元主婦もいて、料理の出来は素晴らしかった。当初こそ、知り合いに無理に頼みこんで注文を取っていたが、評判を聞きつけた方からの注文も入り初め、あっと言う間に10食ほどになっていた。

しかし、ここにたどり着くまで順風満帆ではなかった。むしろ失敗の連続で、お客様にご迷惑のかけっぱなしだった。
配達初日のことである。シンのある固い失敗ごはんができあがってしまった。
お弁当をお渡しした後、さすがに「本日は、お金をいただくことができません。」と告げた。と、驚くことに「ありがたくいただきます。お金は払いますよ。」と優しくお金を手渡してくれたのだ。
その方のお名前は、田山英子さん。すでにお亡くなりになられているが、当時薬剤師のかたわら視覚障害の方のボランティア団体の会長を務めていらっしゃった。義理で取っていただいた方だが、常にご主人との二人分を注文してくれた。

このように失敗つづきで、お金を貰えない(けど貰えた)日々が続いたが、ご利用してくださった方々は、忍耐強く取り続けてくれた。そのおかげもあり、いつしか売れるお弁当を作る実力がついていた。やがて、東京都社会福祉振興財団(当時)の助成を受けて、S(エス)クラブとして独立してゆく。SクラブのSはSUPER(スーパー)の略。
このSクラブが、現在の(特)ヒュール総合研究所の前身である。

老人給食が軌道に乗ったのは、当時、新たに「第二」の職員として加わった別府明子の存在が大きい。カウンセラーをしていた別府は、美大出身のためアートセラピーの導入に積極的であり、作業所というよりも憩いの場所としての性格を強くする原動力になった。職員や通所者といった枠を超え、共同で事業を進める雰囲気が出来上がっていたのだ

そんなある日、一人の通所者がお弁当を配達したお宅で、一人暮らしのおばあちゃんが、電球を変えられずに困っているのに出くわした。そこで、ひょいと替えてあげたら、非常に喜ばれたと、満面の笑みで報告するのである。ここから、現在では有償家事援助サービス(ホームヘルパー派遣)と呼ばれる事業のまねごとが始まることになる。
確かに、通所者ができることは庭掃除、草むしり、荷物の片付けなどの簡単な事ばかりであったが、真っ昼間に10人の男性を動員できる強みをもっていた。

福祉事務所からは、施設に入ったり、お亡くなりになられた方の部屋掃除の仕事も舞い込んだ。2DKの部屋ならば、どんなに汚れていたとしても2時間で見違えるほどきれいにすることができた。特筆されるのは、現在はガイドヘルパーとして有資格者しかできない事業を、当時は通所者が行っていた事実である。養護学校の送迎バスの発着所から家の玄関までの送りを、通所者が行っていた。もちろん、依頼される方もそのことを理解した上で、充分に重宝がられたのである。

現在は、これらの事業は資格者(プロ)の独壇場であるが、一回の事故もなく、時間に遅れることもなく、障害のある方がガイドヘルパーを担っていたのはまぎれもない事実であった。公的介護保険が導入されるのは、これより10年も後のことである。

(5)ホワイトナイト現わる

昭和63年の初夏。千葉の施設建設の話に戻る。
東京の練馬で、高齢者のお弁当や有償の家事援助が軌道に乗り始めたころ、施設の土地を決める締め切りが一週間後に迫っていた。二年間待ち続けた千葉県庁も、この計画の実現に懐疑的な目を向け始めていた。
康雄が最後の望みをかけて、君津市内にある農協の競売物件を見に行くことになった。
曇り空であるが、おだやかな日曜日であったと記憶している。
いくつかの農地を見せられた。
案内してくれた方から「ここは農地かつ農業振興地域だから、政治力がないと農転は難しい。政治家に知り合いはいるか」と尋ねられた。
「いない」と答えると、案内者は急に無口になったが、それは不可能の合図であった。
このとき、康雄は施設建設からの撤退を決めた。
千葉県、いや日本で、障害者施設を創ることなど不可能だと本気で思った。
すぐさま、練馬の作業所で待つ母の八重子に、電話でそのことを告げた。
千葉県庁に法人の認可申請の取り下げと、これまでのお礼を伝えてくれるように頼んだ。
このとき、君津市のとある不動産屋さんから、施設に適した土地があるとの連絡が入っている事を告げられたが、「今更無駄だからやめよう」と答えた。
まだ、時間は午前11時、せっかく君津まで行っているのだから、見るだけでもと説得されて、しぶしぶ訪ねることにしたのであった。

大成産業、その不動産屋さんの名前だ。
地図を頼りに、ようやくたどり着いた店舗は、不動産屋というよりも個人の事務所といった佇まいであった。
中に入ると、一人の翁然としたご高齢の男性が座っていた。
「東京都の練馬から来ました。大泉学園実習ホームの馬場です。」
「あなたですか、土地を探しているのは。
前から、あなた方が君津で探しているのは知っていました。
最近、君津の土地は値上がりしていて、今どきあなたがたの予算で買える土地はありませんよ。
ただ、ひとつ、福祉のためなら売っても良い土地があるから見てみますか?」
この様な会話を交わした後、事務所の人に現地を案内してもらった。

土地は山あいの農地ではあったが、今まで見た中では一番町に近く、ありがたいことに平らであった。
すぐに気に入ったが、はたして売ってくれるのか。
あの、おじいさんは何者だ?と警戒心よりも好奇心のほうが強くなっていった。

事務所に戻ると、待ちかまえていたかのように質問された。
「どうでしたか、あそこで施設は建ちますか?」
康雄は、気になる点を挙げた。
「いくつか、問題があります。
第一に県道から建設予定地まで350メートルほどありますが、畠のあぜ道で、車一台がようやく通れる幅しかなく、大きな工事車両は通れません。
第二に、これが一番のネックになると思われますが周りに民家があって大反対を受けるでしょう。
第三に農地で、かつ農振法適用地で、政治力がないと難しいと言われています。」

目を閉じて聞いていたご高齢の男性は、安心したように軽い笑みを浮かべて答えた。
「まず、一番目。
道は拡げるから問題ありません。簡単です。
二番目の住民の反対も全く心配いらない。
最後の農転も、農振法適用除外地の申請も問題ありません。
なら建ちますか?」
「建ちます。」
じゃあ、売るとなって建設地が決まったのだ。
それまでの候補地では、地主さんに売る意思があっても周りの大反対に怖気づいて、売買を白紙撤回されることが多かった。地主さんの承諾をもらうには雲より高いハードルが待ち構えているはずだった。それが、こんなに簡単に返事が貰えてしまった。

突然現れたホワイトナイト、この方のお名前は「鈴木菊治郎」氏。実は、元の君津町長(今は市になっている)で、現職時代に新日鐵を君津に誘致した方で、君津市の名誉市民であった。
しかも、息子さんが、当時の現職の千葉県会議員さん。かつ選挙地盤が件の建設地を擁する一帯で、皆が施設建設には大賛成とのことであった。
さらに鈴木氏は、市に対し、障害のある方のために進入道路を拡幅するよう陳情書まで出してくれた。結果、君津市は、みごとなまでの進入道路を造ってくれたのだ。

こうして千葉県の法人「社会福祉法人教友会」(理事長 馬場八重子)は平成元年11月認可された。
平成3年3月には知的障害者入所更正施設「たびだちの村・君津」(定員50名)が開所するが、八重子の二男・啓友は村長(施設長)として千葉県君津市に赴任する。

鈴木菊治郎氏は町長を辞めたとはいえ、当時の君津市の幹部は、ほとんどが町長時代の部下の方たちであった。何か問題があっても、鈴木氏が直接お願いすると、すぐに動いてくれた。ご威光はまったく曇っていなかった。
そんな鈴木氏であったが、何一つ見返りを要求しなかった。

鈴木氏は後日語ってくれた。
自分の庭のような君津市のこと、東京の練馬から来て施設の土地探しをしている噂はすぐに耳に入ったようだ。
どうせいい加減な団体だからすぐに消えるだろうと思っていたら、なかなか粘っている。何回も説明会を開いている姿を見ると、どうやら本気らしいと分かった。
そうしたら例の土地があることを思い出したとのことだ。
ほんとうは、売った金額の何倍もの値段で売りに出すつもりの土地だったそうだ。

「たびだちの村」の工事も終わろうとしているとき、鈴木氏の息子さん(県会議員)の政敵が鈴木氏を中傷する印刷物を配布した。
「鈴木氏が障害者施設側からお金をもらって、(施設の進入)道路を造らせている」とかいった内容だった。もちろん全くのデタラメだ。
当然、鈴木氏は激怒した。
選挙前のライバルを攻撃するための悪質なチラシだったため、訴訟を起こす準備をした。
しかし、「たびだちの村・君津」の開所式を朝日新聞と読売新聞が取材をしてくれた。
翌日の新聞には鈴木菊治郎氏の功績が記事になり、事実を白日の下にさらしてくれたのだ。鈴木氏は矛を収めた。

鈴木氏は法人の認可以来、社会福祉法人教友会の理事を務めてくださったが平成5年4月13日逝去された。
亡くなる一週間前、八重子と康雄はご自宅を訪ね、病床を見舞った。
鈴木氏は衣を整え布団に正座したまま二人を迎えた。
「もうお会いすることはないでしょう。」
帰りがけに、もらされたお言葉だ。
地域に多大な貢献をされた巨星は、最後の力を振り絞り障害者福祉に尽力された。
忘れえぬ恩人の一人である。

千葉では、その後、平成7年8月 知的障害者入所授産施設「たびだちの村BISHA」(定員40名、通所部15名)、平成8年10月 GH「ふきのとう」(定員2名)、平成12年10月GH「対河館」(定員4名)、平成14年10月GH「ホームタウン南久保」(定員9名)を開所する。

さらに、平成21年6月指定相談事業所「サロン・ド・ダビンチ」を開設、平成22年7月には手作りパンの店「モン・ソレイユ」を開店し、続いて、平成24年7月就労継続支援B型事業所「たびだちの村・ふれあい通り」を開所する。