第3期-地固め-

(1)「第二大泉学園実習ホーム」2回目の移転

翻って練馬。
平成元年11月に千葉県で(福)教友会の認可を受けたのも束の間、石神井台の「第二」に移転話が持ち上がった。大家さんの意向ですぐに出て行くことになった。平成2年はお正月をゆっくり迎えるどころか、次の場所探しから始まった。
新しい移転先は関係者の尽力により程なく見つかった。大泉学園町1-29の大泉学園通りに面した空き店舗で、住宅前というバス停の目の前であった。
平成2年5月「第二」は新しいスタートを切った。

今回の引越では、引越前の建物の内装工事をするとすぐ転居させられたので、あまりのもったいなさに皆でフローリングのカーペットを剥がして持ってきていた。新しい「第二」は、このカーペットを自力で敷くことから始まった。職員、通所者、一部父兄が力を合わせた初の共同作業だった。
後に特別養護老人ホームやすらぎミラージュの施設長に就任したる大武美代子は、この時期「第二」の職員として就職した。カウンセラーとしての入職だったが、徐々に重責を担ってゆく。

(2)栃木で(福)清友会の認可

すでに述べたが、昭和50年ごろ、八重子の実家である栃木県大田原市(当時は湯津上村)で障害者施設を計画したことがあった。そのときは、東京の方を入れる施設であったために計画は進まず断ち切れになっていた。その縁で大田原市での特別養護老人ホーム建設の話が舞い込んだ。
大田原市から、数人の議員さんや関係者の方々が、練馬の作業所を見学に来た。
当時は、福祉作業所を運営しているだけの無認可団体。高齢者事業の実績も、障害者が行っている老人給食と優賞家事援助サービスしかない。
栃木県庁に相談いくと、担当者から、80団体ぐらいから特養建設の相談が持ち込まれていると言われてしまった。

土地は、少し高台の農地で、那須連山を見渡せる素晴らしい眺望の場所だった。土地の金額は、それまで東京での施設建設を目指して貯めてきた建設基金で賄える額だった。コツコツとバザーや模擬店で蓄えてきた貴重なお金であったが、人さまのお役にたてるのならと反対する関係者は皆無だった。

協議書は提出したものの競争率が高かったので半分は諦めていたが、最終的には選ばれて平成3年9月 栃木県の法人「社会福祉法人清友会」(当時理事長 馬場康雄)が認可される。平成4年10月 特別養護老人ホーム「やすらぎの里・大田原」(定員50名、ショート20名)、やすらぎ舎デイサービスセンター、在宅介護支援センター、ヘルパーステーションを開所する。

栃木では、その他、平成16年4月 養護老人ホーム「若草園」(定員50名)が大田原市より委譲される。
若草園の施設長を経てやすらぎの里・大田原の施設長になった伊藤清幸は、大泉学園実習ホームの元職員である。

(3)東京での実験的・開拓的活動が本格化

平成3年から4年にかけて、大泉学園実習ホームは「第一」、「第二」共に作業所の運営は活発化を増していた。定員はどちらも30名に達し、内職の受注活動も順調に推移していた。
一方、障害者が始めた老人給食、有償家事援助サービスは、共にSクラブ名で東京都社会福祉振興財団の地域振興事業の助成を受けて独立し、平成4年には最盛期を迎えていた。
このSクラブは、病気や障害についての啓発事業、障害者による人形劇団「だいこん座」などの活動も活発に行った。一方、国際交流にも目を向け、海外の各種団体と共同のシンポジウムを開催したり、文化交流も積極的に展開した。平成4年当時、まだNPO法人の制度も無くボランティア団体の位置付けであったが、実験的・開拓的福祉事業を積極的に担った。
Sクラブは、現在、特定非営利活動法人(NPO)ヒュール総合研究所(平成11年11月認証)として法人化され、障害者自立支援法の就労移行支援と併せて最終的な就労の場になることを目指して、積極的に活動している。平成4年は、エポック・メーキングな年であった。数々の活動を通して大泉学園実習ホームグループの種が蒔かれた年でもある。
一番象徴的なのは、グループの将来における活動範囲は人間の生活全般に及ぶもの、と定義されたことである。ヒュール総合研究所のヒュールの基になったHUMAN WELFARE(人間福祉)こそが活動範囲と再確認されたのだ。
グループの根本理念「あらゆる人に生きる夢と勇気と希望を提供する」も、行動指針「やすらぎ福祉道」の原型も、この年に誕生している。ただ、これら理念を具体化し実現するには、あまりにもマンパワーが少なすぎた。
千葉と栃木には社会福祉法人を設立したものの、東京は依然として無認可の福祉作業所と、老人給食や有償家事援助をしている任意団体しかなかった。
当面は、東京の足元を固めることに専念するしかなかった。第一の目標を、東京都での社会福祉法人設立に置いた。

(4)東京で(福)章佑会の認可

昭和52年からの悲願でもあった「東京での入所更生施設の建設」を熱望する声が、再び高まってきていた。しかしながら、民間が行う23区内における入所施設の建設は、絶対に不可能と言われていた時代である。
まずは、地域の同意を得やすいことと、練馬区でも実績(老人給食、有償家事援助サービス)があった高齢者事業でもあり、栃木県ですでに運営実績もある特別養護老人ホームの建設を進めることにした。

当初の予定地は練馬区大泉学園町6丁目にあった。閑静な住宅地であったが、特養ホームということもあって地域からは歓迎を受けた。しかし、準備を進めている段階で当該予定地が公園計画地内にあるため、そこでは建設できないことが判明した。
急遽、土地を探していたところ運良く大泉学園町7丁目に最適地が現れた。そこが、現在(福)章佑会の本部がある場所である。
平成6年3月 東京都の法人「社会福祉法人章佑会(理事長 馬場康雄)」が認可される。
平成6年11月 特別養護老人ホーム「やすらぎの里・大泉」(定員50名、ショート4名)、デイサービスセンター、在宅介護支援センター、ヘルパーステーションを開所する。

(5)「第一」と「第二」の同居

平成11年5月、「第一」と「第二」は、共に長年通い慣れた建物を離れ、練馬区大泉町4-20の都民自動車教習所ビルに移転・同居することになった。一階は「第一」、二階は「第二」が使用する。昭和62年以来、12年ぶりの同居である。

作業所の運営方針は、作業所を基本的にホッとできる場所、羽を休められる場所と位置付けた。内職やくつろぎの空間をコアに置き、少しハードな仕事のプログラムをコアの周りに配置して自由に選べる選択制にした。
仕事のプログラムは、公園清掃、施設清掃・シーツ交換(ラビット隊)、有償家事援助サービス等がある。

同年5月、(福)章佑会は「やすらぎの里」に続いて特別養護老人ホーム「やすらぎミラージュ」(定員70名、ショート14名)開所、デイサービスセンター、在宅介護支援センター、ヘルパーステーションを開所する。

明けて平成12年、高齢者福祉は大きな変革期を迎えた。それまでの措置費に代わり公的介護保険制度が施行されたのだ。サービスの質で競争する時代に突入した。
サービスの提供は、社会福祉法人以外に、NPO法人や株式会社でも参入可能な分野が拡大した。まさに戦国時代、多様な団体が参戦してきた。高齢者に対するサービス競争は激化した。
一方、障害者福祉の世界では、声高にノーマライゼーションが叫ばれ始めていた。従来のように施設を中心にした画一的なサービスを受けるのではなく、施設を出て自分らしく生きることが理想とされた。そんな時代、もはや入所施設は不要と言われ始めていた。しかし、入所更生施設は、更生させて自立することが目的であって、元々がずっと住み続ける施設ではなかった。にもかかわらず、施設を出た後の次の環境が無いために、入所施設の利用者は出るに出られず「終のすみか」化してしまっていたのだ。入所施設が悪いのではなく、運用の仕方が悪かったのだ。
そう考えると入所更生施設の役割は、現在でも色あせていない。その性格上最も地域福祉をコントロールできる立場にある。そう確信したため、知的障害者入所更生施設の建設を決意するのである。

(6)練馬区に入所更生施設の建設

最初に建設候補に挙げたのは、「大泉学園実習ホーム」の発祥の地である大泉学園町にある国有地であった。住宅地のど真ん中であった。
もちろん強硬な反対を受けたが、説明会を重ねるうちに実際は隣接の2~3人が騒いでいるだけで、ほとんどの方はそうでもないことが分かってきた。しかし、この反対者が強烈であった。施設説明会では、どこからか応援を集め、怒号で会を紛糾させた。施設に賛成している住民に嫌がらせをするは、当法人が運営するデイサービスセンター利用者に嫌がらせをするはで、陰湿な妨害運動にあった。あげくのはて、「馬場は(練馬区から)出ていけ。殺したろうか。」の声が聞こえ始めた。
ここを候補地に決めてから3年目。膠着状態が続き、やはり練馬区内に施設は無理かと諦めかけたとき、同じ区内の関町に、施設を建設できそうな国有地が出てきたのである。練馬区と相談のうえ、建設予定地を変更することにした。

どれほどの反対を受けるのかと心配していたが、実際の取り組みを見られた住民の方々から、反対の声は全くあがらなかった。「大泉学園実習ホーム」の、障害者でも地域や高齢者に貢献できている実践活動が、住民の人たちの共感を生んだのだった。
奇跡だった。
平成16年4月 知的障害者援護施設(入所更生60名、通所授産30名)「やすらぎの杜」は開所した。